カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]
出家して修行する弟子は受け付けれおられるでしょうか?
笠間様
お寺のメールアドレスです
t-kawabata@m2.spacelan.ne.jp
木村様
先日は雨が降りしきる中、早朝よりお参りいただきありがとうございました。今後も「一ツ灸」を通じていろんなことを発信できたらと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
「やすらぎの会」の方は常時、女性の方2~3名が熱心に参加してくださっており、おかげさまで続けさせていただいております。機会があれば、是非、おいでください。
昨年、生まれて初めてお灸に参加しました。
今年も 朝5:20の法話を目指して 自転車で向かいたいですね。
ホームページも充実して、やすらぎの会に参加できなくても、同じ
お話が楽しめます。これから、ちょくちょく訪問します。
佑太様
この度はリンクありがとうございました。こちらもリンクに追加させていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
お寺のHPを開設してから6年でブログやらfacebookなど、新しい形のものが登場してきましたが、今や会社法人にとって、HPはあって当たり前のような存在になってしまいました。
開設時はとにかく業者に依頼して制作していただくほどの経費もありませんでしたし、自由に更新したいという思いが強かったので、自主作の道を選びました。見た目はプロが作るものには負けますが、中身は負けないつもりでいます・・・笑
知人からは手作り感が親しみを感じさせてくれるから、続けてほしいというお言葉もいただいております。TOPページに使用する4枚の写真を毎月、更新するので、撮影が大変な時もありますが、なるべく費用をかけず、中身を充実させていきたいと思っています。どうか今後ともよろしくお願いいたします。
拝啓 お忙しいときに申し訳ありません。
自分で作られたHPのようですね。
今や星の数ほどもあるHP。
私は親近感が伝わる自主作が好きですね。
当方は自主作HPだけのサイトを展開中です。
勝手ながら、都道府県ページに掲載させていただきました。
(商用ではない趣味的HPなので、無料掲載が常識です。)
もし不都合の場合はご連絡をと。。。。
すぐに削除いたします。
サイトは自分で手作り更新集 自主作MAP
下記の投稿のタイトルは変換ミスです。正しくは“「お寺離れ」と言うけれど”です
大喜びするような話でもありませんが・・・。
HP開設から6年―おかげさまで、この度、HPのアクセス数が20,000人を超えました。世間にはもっとアクセス数の多いサイトはたくさんありますし、人数の多い少ないで一喜一憂するのも大人げないのですが、お寺のHPというのは、それでいいんじゃないかと思っています。まずは今日まで賛否両論、高源院のHPを支えてくださった皆さんに、この場をお借りして御礼申し上げます。
今後も牛のようにのんびり構えながらも、しかし、時代に即応しつつ、内容は深いものを目指しながらも、HPを続けていきたいと思っていますので、何卒、よろしくお願いいたします。
世間では「お寺離れ」などという言葉を耳にします。昨日も私どもの宗派の若手僧侶の学習会で「お寺離れ」に関するパネルディスカッションが行われましたが、何を以て「お寺離れ」というのか、その定義が明確になっていないままに言葉だけが先行し、それに世間の人々が何となく追随しているかのような印象があります。同様のことが「直葬(葬儀をせず、直接、火葬場で荼毘に付すもの)」や「家族葬(家族のみで故人様をお送りする葬儀)」など、近年、耳にする言葉から感じられます。いずれも、世間の人々がお寺や僧侶と距離を置こうとしている風潮を反映しているような印象はありますが、実際、自分の周りを見るに、そこまで人から毛嫌いされている僧侶はいないという現実もあります。
つまり、私は僧侶という存在が、ある部分では人から求められているようにも感じますが、しかし、別の部分では求められていないようにも感じるのです。世間が提示する言葉やデーターも大切ですが、それを鵜呑みにするのもいかがなものか・・・?現実の部分で、僧侶として、もっと広く言えば、人としての生き方を磨き、精一杯のことをさせていただくことが大事ではないかと思っています。
何はともあれ、今後とも、HP共々、高源院をよろしくお願い申し上げます。
私は、人と余り話をしない。対人関係で大分苦労したということもあるが、私は、人とは大分違うらしく、何か言ったりすると何か重い言葉になってしまう、ということを、自分では思う。あなたがここに書くことをなくしてしまうようなことになってしまうことに、申し訳ないような気もする。自分の目は何でも見えるがその自分の眼自体は見えないとよく言うように、私も、自分がこうして書いていることがどのような言葉の重さを持っているのか、自分でもよく分からない。
この前、『ロオマ帝国の崩壊:文明が終わるということ』という本を読んだ。ロオマ帝国の崩壊についての学者の論じ方が昔とは大分違っているということが、その中で書いてあった。そういうことを見ていると、歴史というものも、解釈というものが結構大きな要素を占めるのだろうという感じがした。解釈というと私は法学部で解釈というものを学んだので法律の解釈というのが思い浮かぶが、結局は自分がどう理解するか、そしてその根拠は何かということにはなるのだろうと思う。それは、自分が何をみるか、そしてどのように見るか、ということにつながるのだが、それがまた、自分の思想とか信条とか価値観とか、そう言ったものに影響される。それがまた、自分の体験とか読書とかそういった現実的な行為に影響される、ということにはなる。そういうことを考えると、ロオマ帝国の崩壊についての解釈というものにも、時代というものが大きな影響を与えていてまたその時代というものが少し変わってきたという感じが、する。
人間が理屈を言うようになったからなのかは分からないが、今の人は、自然などが訴えることに鈍感なような感じがする。昔だったらとっくに分かっていたはずだったのが、今は理屈で理解しようとするから、何にでも理屈をつけようとする。彼らはそういう人間を、黙って見ているのだろう。あわれというのか、何故人間は分からないのだろうかと、その方がよく分からない。
思いついたことを、書いた。
先日、或神社の祭に参列する機会があった。目の前で、勅使が色々していたり、着飾った人々が境内にいたりしていた。参列者は椅子に座って、その様子を眺めていた。それを見ていて、私は一人物思いに耽っていた。別に誰かが悪いとかいうことではないし、そのようなことを言うつもりではない。ただ、みんな同じ人間なのに、なぜこのように違うのだろうか、そのようなことを考えていた。或人は勅使として、他の人は宮司や神職として、或は夫々の人として。同じ人間である人々が、まるで役割を与えられたかのように夫々の人生を生きている。その時は、そして今でも、ある空しさというかかなしさというものを感じる。人生というか、それがどのようなものであるか、ある種思い知らされるものではある。西洋の名言などではこの世は劇場のようなものだとかどこかで見たような気がするが、言ってみればそのようなものなのかもしれない。それぞれの国で、夫々の地域で、夫々の家庭で、その人は生を享け、その人の人生を生きる。ある言い方をすれば運命、別の言い方では大きな流れ、たとえばそのようなものの中で、その人はその人生を生きる。そのような、この世という場における人生において、その人は生き、その人の人生でするべきことをし、思い知るべきことを思い知り、或は他のすべきことをして、学び、この世をいずれ去っていく。そのような夫々の境遇にある人々が、この世で生きている。そのようなこの世で、神仏は縁をつくったり離していたりするのかもしれない。人間から見れば変えられない運命だと諦めてしまう人もいる。そうではないと、為すべきことを為そうとして強い意志を持ちそれをなす人もいる。そういうことすらも運命というものの中にあるのだろうかと考えると、不思議な感じがする。それを神の意志と言ってみたり、縁と言ってみたりする。それはそれで、そのような側面はあるのだろう。ただ、そのような中に、神仏の介入する余地が、あるのだろうと思う。そのようなことを、ふと思った。
大学学部生のときに買って途中まで読んで約20年間読みさしにしていた岩波文庫の『杜甫詩選』を、先日読み終えた。漢文には詳しくないので文体についてはよく分からないが、杜甫の望郷の念の強さが伝わってくる。ブッダでさえ最後のときには生まれ故郷に向かっていただのから、故郷というもののありがたさというのかやさしさというのか、そういうものを思う。そして、その望郷の念の強さというか、寧ろその深い嘆き悲しみがそのような詩を杜甫に書かせたのだろうと考えると、苦しみというのが如何に難しいものであるかということを、思い知らされる感じがする。芥川龍之介の「ただぼんやりした不安」というのも、そのようなものなのであろうかと考えたりもする。何を言っているのか分からないかもしれないが。
思い浮かんだことを、書いた。